明治6年の廃城令により、日本の多くの城は解体され、現存するお城は多くありません。
天守は12、城郭御殿は4、城郭御殿のなかでも本丸御殿にいたっては高知城とここ川越城の2つだけです。
鴬張りで有名な京都の二条城は二の丸で、本丸ではないのです。
川越城には鷹狩などで徳川将軍の御成りがあった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御殿」であったと現在は考えられています。
江戸図屏風にも川越城は描かれていたり、すぐそばの喜多院にも家光誕生の間を含む江戸城の建物が移築されていることから、徳川将軍家と川越は近しい関係にあり、それで川越が「小江戸」と呼ばれているんですよね。
⇩ 喜多院を訪れた記事はこちらです。
ただ今回訪れた川越城本丸御殿は江戸末期に建てられたもので、徳川将軍が実際に足を踏み入れた建物の可能性は低いのかな?と思います。
⇩ とはいえ17万石の大名御殿にふさわしい、巨大な唐破風屋根の立派な玄関です。
⇩ 現在では市街地を歩いているといきなり現れる本丸御殿ですが、当時はこんなに立派な城郭だったんです。
⇩ そして見学者でも、この立派な玄関から入れるんです。
⇩ 間口3間、式台を上がって入ります。正面には広間の床の間が見えます。
⇩ 当時の本丸御殿の図。現存するのは赤く囲ってある部分で、上が家老詰所、下がここ本丸御殿です。
⇩ 現在の本丸御殿の案内図。当時の広大な御殿群のほんの一部しか残っていませんが、それでも玄関が残っているのが幸い。
⇩ 36畳の広間は、当時の御殿内で2番目に広かった部屋で、来客が城主のお出ましまで待機した部屋と考えられているそうです。
⇩ 板戸は藩の御用絵師、船津蘭山が描いたもの。
⇩ 間近でじっくりと見ることが出来ます。
⇩ 城主との対面は、現存しない大書院で行われていたそうです。青で囲った箇所に「大書院上段之間」と書かれており、ここの床を背に当主が座り、来客はその下にある「二之間」で対面したんだと想像します。
⇩ 来客が当主対面の場である大書院まで歩いたと思われる大廊下。
⇩ 廊下の脇には、このような部屋が並んでいます。ここは「物頭詰所」。
⇩ 裏側の廊下を通り、家老詰所へ向かいます。
⇩ 家老詰所の建物は明治初期に解体され商家に再築されていましたが、玄関や広間の棟のすぐ近くに移築されました。当時はもっと北側に位置していたようですが、建物自体は当時のままです。
⇩ 家老詰所の案内図。当時には珍しく、建物内にトイレが2つも設置されています。
⇩ 畳敷きの廊下を進みます。
⇩ 家老の方々が会議の真っ最中です。
⇩ 部屋の外の畳敷きの入側
⇩ さらに外にある縁側。
⇩ 縁側の床材の木。古い材料なので木の柔らかい部分がすり減り、固い部分が浮き出ています。
取り壊した祖父の家の縁側がまさしくこんな感じで、触り心地が懐かしかったよ。
川越城本丸御殿
開館時間:午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
入館料金:一般100円、大学生・高校生50円、団体料金有り、中学校卒業前の方や身体障碍者手帳等持参者は無料
休館日:毎週月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12月29日から1月3日)、館内整理日(毎月第4金曜日、但し休日は除く)
情報は公式ウェブサイトをご確認ください。
⇩ 場所はこちらです。
⇩ 本丸御殿のすぐそばには、「とおりゃんせ」の唄の発祥の地の天神さまがあるようです。
⇩ 三芳野神社。周りは整備されて広々しており「天神さまの細道」はもう見当たりません。
この後は徒歩ですぐ近くにある川越市立博物館へ向かいました。
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